子ども的論理の一に、
「なぜ自分だけルールを守らなくてはならないのか」
というのがある。
相手が先にルールを破ったとか、
ほかのやつはみんなルール守ってないとか、
そういう違反の先例を盾に、自分もルール違反を認められようとするものである。
最近この主張をぶち上げてくることが多いので、こんな風に説明してみた。
信号は青になれば渡り赤では渡らないというルールがある。
ここで一人とてつもなく急いでいる人が赤で渡ったとしよう。
その人はいつもはきちんと信号を守っている人であり、その行動はたった一度のことだった。
だが、それを見ていた中の一人が、赤でも渡ってもいいのだ、と気づき、毎日のように赤だろうが青だろうが隙を見て渡り始めた。
それを見て、
「どうして自分だけルールを守っていなければならないんだろう」
と思い、たくさんの人が赤でも渡り始めた。
一方、車を運転している人たちは、最初は赤で渡ってくる歩行者に気をつけていたのだが、あまりに気を使いすぎて渋滞になるようになった。
そのうち、
「なぜ歩行者がルールを守っていないのに自分たちだけが守らなくてはならないのだろう」
と思い、歩行者がいても赤でも通るようになった。
交通事故やひき逃げが相次ぎ、そこは、信号があるのに、渡れない道になった。
最初にルール違反をしたのは十人のうちの一人だ。それも一時的なものだった。でも、「ほかのやつがルール違反をしているのになぜ自分だけルールを守らなくてはならないのか」と考えて多くの人がルール違反をし始めた。その結果ルールは意味を持たなくなり、ルールが守っていた安全が失われた。
これでいいのかね?
こういう風になることを知っても君はまだ
「ほかのやつがルール違反をしているのになぜ自分だけルールを守らなくてはならないのか」
という論理にしがみつくのかね?
この他にも、
「親が子どもの世話をするのは当たり前というルールを無心に破った結果起こった「誰も知らない」事件」
とか
「やっぱり親が子どもの世話をして病気になったら病院に連れて行ってあげるのは当たり前だというルールを破った結果起こった中学生男子風邪引きから意識不明事件」
とか
「パチンコ大好きお母さんが普通はそんなことしないだろって思う炎天下車の中にあかんぼ放置によりあかんぼ死んじゃった事件」
とか
「子どもに食事与えなかった結果餓死しちゃった事件」
とか、もりもり話してやり、
「お母さんもたまにはお仕事のお友達と帰りがけに一緒にご飯食べたいなーと思うことがあるけど、お前たち小さな坊やがたった二人でおうちで待っている限りそういうことはしない。それはお母さんのルールだ。お前たちはそのルールに守られている。もしもお母さんが突然ルールを破って毎日遅くにならないと帰らないようになったらお前たちはそれをうれしいと思うのか? 」
というところまで行き着いた。
子どもたちにはやはり
「母親が母親のルールを守らなかった結果子どもが大変なことになった事件」
が身にしみたらしく、少し神妙になり、もうそういう言い訳はしない、ルールを守るようにする、となった。
まあすぐには難しいだろうけれども。
ぶっちゃけた話、ルールというのは限られた集団内でお互いのトラブルを少なくするための詭弁だと思っている。
このとき
「限られた集団内」
というのがポイントで、それはつまり
「ルールを共有しうる集団」
ということだ。
だから、どっかの漫画で読んだ
「誰かを殺そうとしてるやつは殺されたって文句は言えないんだぞ! 」
という宣言は、おそらくは殺し合うことがそう珍しくないコミュニティの中に散在する殺そうとする主体に向けられた言葉であり
また律法の非共有こそがすばらしき慈愛に満ち溢れた宗教が異教徒をミナゴロシにする理由であり
最近のマスコミがやたらと犯罪者を生い立ちから自分たちと峻別しようとするのは
「あれは外様のやったことで、我々の所属する集団内にはいませんよー」
と言い立てるための報道である。
でもね。
この犯罪者の峻別はおかしい。
法制度は
「これこれこの罪によりこの人物はコミュニティのルール違反とし罰を受ける」
だったのに、マスコミは
「この人物はそもそもこういう生い立ちでこういう性癖だったから精神的社会的にはそもそもコミュニティの外にいた、だからルールを理解しきれず、だから罪を犯したのだ」
という文脈にしようとしている。
つまり、コミュニティを共有している者はルールを理解していて当たり前だというのが、昨今のマスコミ報道の見えない前提であり、それゆえにマスコミは犯罪者の異常性を暴き出しコミュニティ外の存在に仕立てるべく躍起になっているのである。
彼をコミュニティ内のルールで裁くことを一方では期待しながら。
「精神に障害があるため責任無能力者である」との結論をあれほど嫌忌しながら。
だが。
犯罪者ってのは、私とも、うちの子ともそんな変わんないもんだと思う。
まぁ、なんにせよ、なぜ自分だけルールを守らなくてはならないのか、と思う時点ですでに負けなんじゃないかな。
周りがどうであれ、自分だけは、自分が正しいあるいはこのコミュニティに必要だと思ったルールを守る。
それこそが義務だ。
もっと誇らしく生きろよ。
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ルールは守らないから行けないから守るのではなく、皆で守った方が社会が円滑に営まわれ、引いてはそれによって自分が利益を得られると考えればいいのかなあと。
→誰しも直感的に理解しやすいのは実のところ損得だと思うのです。ルールなどという一見「道徳的
」な命題を損得という俎上に載せるのを嫌う人々もおりますが、本来ルールという一見「道徳的」に見える命題さえ「できるだけ多勢が得をするにはどう取り決めるのがよいか」という見地から決められたものではありますまいか。そうであればルールを損得から語るのは大変正しい。そして損得を語りつくしたところに見えてくる極めて公平な地平にたどり着いたとき、初めて損得と道徳とが一体化し「周りがどうであれ、自分だけは、自分が正しいあるいはこのコミュニティに必要だと思ったルールを守る。」というところに至れるのだと思います。
そこにとっとと至っていただくために、今日も説教三昧です。
そして更にその先にある「七十にして矩を踰えず」に早く至りたい
ネコタ斑猫 拝