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百物語第四夜其の伍 明日

 その店はあるのだかないのだかよくわからない店だった。
 近所に川がある。その川には最近にしては立派な河原がある。その河原を少し下った橋の下に、ごく小さい店が稀に呆と建つ。目を凝らしてもあるかないか不明瞭な、輪郭の定かでない薄黒い小屋にしか見えぬ店である。勿論看板などない。どんな構造なのか、どこから入るのかすら外からはわからない。そんな不可解、或いは自分以外は認識すらしていないのではないかと思われる店を、仕事のない土曜日の夕刻、散歩の途中に見かけると、私は河原へ降りる道を探してその店を訪ねるのである。
 (ら…しゃいませ…)
 黒い板を打ち付けただけのぐるりからどうして私は中に通じるだろう扉を探せるのか。そしてそれは裏口でもなんでもなく、確かに正当な店への入り口であり、建物の輪郭よりもさらにうすぼんやりした中に私をたどり着かせるのか、わけがわからなかったかそんなことはどうでもいい。私には、誰でもない誰かとして、誰でもない何かに、重い軽いにかかわらず開示しずらい事案をほのめかす場所が必要だったのだ。
 カウンタらしきものがあり、その上には価格表があった。それはところどころ薄汚れていたり消えていたりして、どうにも現役ではなさそうだったが、かろうじて読めた文字に従い、私は注文した。
 「水割りで」
 「…たまわりました…」
 おい天文学者連、あんたらが探しているダークマターとやらは実のところここにあるんじゃないのか、こいつをダイソンあたりで吸引するかジップロックあたりでちょいと密閉したらあんたらの研究の糧になるんじゃないか、そんな具合に不定形で薄黒い燃えさしの何かのような影が対応する。背後の飲み物は古びているが見たことのある酒瓶類で、或いはここは戦後にここに身を寄せていた酒場の亡霊なのではないかと思いを馳せる。
 静かだ。誰もかれも煤の影のようだ。私も他からそのように見えておれば非常に面白いのに。しかし一方で、他は一体自分をそのように認識しうる主体であるのか、そのことを思うと期待はしちゃいかんする気がする。
 私はただ、おそらくこの地域の人間であってもすべての人は認識しきらない、この呑み屋の残留思念のようなものを訪ねて、当時の人々の影とあるようなないような会話を交わす、そのあてどなさ掴みどころのなさが、いっそ諸般に括りつけられているような私を扶けるものだと頼みにしていた。
 
 「3…50円です」
 支払うと、トリスの水割りが出てきた。この時分は冷えるので氷は厳禁だ。といって原液では胃を遣られる。ならば温めればどうかと思われようが、立ちあがる香気は強すぎてちとつらい。消去法の、後ろ向きの、ただの水割りである。
 「女がね、大事にされるようだよ」
 うすぼんやりした黒の影が、珍しく自分から口を開いた。こんな不明瞭な、存在も確かならぬ幻の店の従業員(主人なのかすらわからん、なぜならみな薄黒い影だからだ)に、その基準すら開示されぬまま、ただ、お前は店と何らかの情報を共有するにたる人物であると判定されたようで、知らずその後の私の思考は極彩色まではいかずとも暖かく柔らかい歓喜を帯び始めた。
 「ほう、どんな女がですか」
 「幸せな話だよ。」
 「どう幸せなんですか」

 黒い影は前後も左右もわからぬ黒い影のままだった。私にはその様子が却って好もしかった

 女にあったのは中程度の不幸だった。
 隠し子を作られたのは立派な不幸だった。だが夫の女性関係をそのような方向に駆り立てたのは女の酒乱であった。それは承知していた。酒乱を治すために夫の実家に子どもごと滞在したところ女はアルコールを断つことに成功し、見守っていた夫の両親が夫に関係の再建を迫った。
 すると夫は、自分にはすでに別の女と子どもがおり、二度と女とは添えないということを、明白に告げた。

 女は己の病状について十全に理解しており、それゆえに関係の継続をあきらめた。ただ、夫の両親に対する夫自身の不誠実については、咎めるべきだと思っていた。といっても立場上ままなるものではない。女は夫の両親のその後も続く誠実をいっそ空虚なもののように覚えながら、日常が戻ってくるのを待った。

 それがまだ顔も見たことのない女の人生の中段である。

 それから女は仕事を始めた、自身の実家に助けてもらいながら子を養った。子育ては下手ではあったが国の整備してくれたシステムと親、友人のおかげで、子どもらは人生の課題を女の知らぬところで着々と課題をこなしながら育って行った。

 ふいに黒い影は私に向き直った…意志を発する方向がこちらに向いたというほどのことだけであるが。

 あなたはこれからその女に会うだろう。この面倒な女に。だがあなたはその女をあたかも掌中の珠のように愛でるであろう。ねぶり、なぶり、くじり、いじり、そのことをお前は心から楽しむだろう。その見目を愛おしみ、声を愛おしみ、その喉から発される旋律を愛おしみ、知性を愛おしみ、末永く手元に置いておきたいと思うだろう。

 それがお前が明日会う愛玩物だ。

 もう一杯頼もうとした。だが、見上げたとき、すでに酒棚もメニューも黒くくすんで、どうしたって次は頼めないような具合だった。

 「ごちそうさまでした。」
 
 私はやむなくそこを辞した。最後まで店には他にも誰かまたは何かが居るようででそれなのにどれもよくわからなかった。

 私は、明日から逃げ出したくなった。

 それで私は、特段の用もないのに、河原の臨める喫茶店に陣取って、好きでもないコーヒーを啜りながら、あの薄黒い小屋が今ひとたび出現するのを、今か今かと待ち望んでいるのだ。

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ネコタ斑猫

  • Author:ネコタ斑猫
  • オリジナル百物語サイトバー理科室の管理人。本家サイトでは400字×20枚内読み切り短編連載中。死ぬまでに千物語を完成させるのが目標。
    プロフ画像は山田芳裕著「へうげもの」より。古織いいよ古織。
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