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横浜トリエンナーレ雑感

横浜トリエンナーレは初回から欠かさず見物している、

トリエンナーレ初回は2001年に開催された。
横浜グランドインターコンチネンタルホテルにとりついた巨大バッタは横浜ウォーカーの度肝を抜き、
オノヨーコは露天に置かれた銃創だらけの貨物車から一条の光を天に向かって放つという作品を公開した。
桜木町からランドマークタワーに至る動く歩道に沿って展示されたイチハラヒロコによるキャッチコピー幟アートは町ぐるみの乱痴気現代芸術祭気分を大いに盛り上げ、
トリエンナーレのことなぞ知らずに通りがかった人にもただならぬ予感を覚えさせただろう。
作品も、塩田千春の泥の滴り落ちる巨大なドレス『皮膚からの記憶』、
小沢剛の『醤油画資料館』を始め、
脳みその普段使わない部分をガンガン刺激するような、
破格の面白さを孕んでいた。

横浜トリエンナーレ2011。
数えて4度目の展覧会を見ながら、
俗に現代アートといわれるものがわかりづらい由縁とはどこにあるかをつらつらと考えた。

アートの主題の変遷を恐ろしく雑駁にまとめてみると
原初における
呪術を目的とした模倣
内的な感動の表出
に始まり
神仏への捧げもの
権力者・金満家の御用聞き
時代を経て
自我の表現
感覚の解体と再構築
から
文化の解体
という感じになろうか。
で、この流れからすると最も技術を問われ、また客観的な完成度を求められるのは
神々への捧げもの
権力者・金満家の御用聞き
を主題としたものであることには容易に考え至る。
一方で
感覚の解体と再構築
に於いては、客観的な完成度よりも鑑賞者(あるいは作者本人)の感覚を如何に揺さぶるか、が問題となり、
さらに
文化の解体
に至っては、もはや鑑賞の際に導となるのは感覚ですらなく、問われるのは鑑賞者のこれまでの内的な経験群と、それを軸にした文化的なる理解の過程になるということも、同じく容易に考え至るところである。
つまるところ、現代アートのわかりづらさは、作者が鑑賞者に頼りすぎているところにあると私は考えるのである。
これが最も未成熟な形で見られるのが美術学校の生徒による作品展で、
ああいうところに足を踏み入れると、まぁ、
インタラクティブアート
なんて銘打って、
鑑賞者の働きかけを求めたり
いっそ鑑賞者に作らせたものを自己流に配置換えして作品を名乗ったりするものが
矢鱈並んでいるので
そういうものを体験したければ是非一度足を運んでみるとよろしい。

製作工程を見せる作品
製作工程を想像させる作品
説明を見て初めて意味をなす作品
地域密着を謳いその実小ぢんまりとまとまってしまった作品
作家連のコミュニティとコミュニケーションをのぞき見する場

なるほどアートとは「感動」という鑑賞者の内的な過程そのものなのかも知れない。
でも、折角三年毎なんだから、
もっとこう、初代みてぇに、
働きかけることなぞ思いもつかず
鑑賞者がただただ呆けて見上げるほかないような、
そんなような
野放図でばかばかしい作りこみの作品がみてぇもんだ。
そんなことを強く思った次第。

あと、
毎回毎回展示作品がカタログに掲載されていない問題
をどうするのかと思ったら
今回はカタログそのものが未発行でやんの。
そう来たか、横浜トリエンナーレ!

超蛇足:
オノヨーコさんの電話ボックスのアレ。
東京都現代美術館でもやってたと思うんだけど、
作品名の年度かえりゃそれで新作とゆーのはどうかと思うぞ。
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ネコタ斑猫

  • Author:ネコタ斑猫
  • オリジナル百物語サイトバー理科室の管理人。本家サイトでは400字×20枚内読み切り短編連載中。死ぬまでに千物語を完成させるのが目標。
    プロフ画像は山田芳裕著「へうげもの」より。古織いいよ古織。
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