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百物語第四夜 其の伍 電脳作家と奇怪な検閲

こんな小説を読んだ。

「私こと◯◯◯◯◯、稀なる出来事に出会ったため、その解題をここに記し、後世の資料とし、また読者諸兄の判断を求むる材となさんとす。

 私はハンドルネーム「◯◯◯◯◯」としてネット上に様々な文章を書いている。最も力を入れているのは百物語と銘打った原稿用紙で20枚内の幻想掌編集だが、そのうち日記風の雑記もものするようになった。この雑記、当初は百物語を更新しない日の埋草に過ぎなかったが、書くのが楽なもので、じきそちらばかり更新するようになった。
 雑記を始めた当初はブログの黎明期で、そのため自分もHTMLベースでちくちく更新していた。だがあるときブログを試しに使ってみたところ、記事を書いて公開する以外にも様々な機能がついており大変至便であることがわかった。検索機能は自前の備忘録としても利用する自分のようなものには中々有り難い。記事をカテゴリごとに分けられるのも良い。だが、最も画期的であったのは、外部から個別記事に独立してリンクを張りうるという点であった。これまではリンクとは基本的に頁あるいはサイトのトップページに張るものであった。だがブログを導入したことで、私の記事は私がこれまで積み上げた文章から解体され、検索結果や個人ニュースサイト紹介のリンク先に、単独で立ち現れうるようになったのだ。
 この改新に押されて私の雑記への姿勢も変化した。それまでの日記備忘録風から、記事については単独での完成度、主題については様々な個人ニュースサイトが取り上げたくなるようなカテゴリのものを意識するようになった。掌編集としての百物語が丁度そうであったように、私という書き手のことも、前後の作品のことも、全く知らなくとも楽しめ、何かを得られるような、そういう記事を書くべく私は腐心した。そのときどきに思いついた主題を表現するに最適な文体を選ぶことを旨とし、学術的な内容であれば学術的な記述を、下劣な内容であれば下劣な記述を、心ゆくまで弄び研ぎ澄ませながら書き上げた。そう、そこは百物語と同様、私にとっての実験棟だったのだ。
 そして私の腐心執心砕心の成果か、いくつかの記事が個人ニュースサイトで取り上げられるようになった。リンクが増殖し、アクセスが爆発的に飛躍する現場に私は立ち会った。好意的なコメント、否定的なコメント、一人語りなコメントなど寄せられるうち、否定的なコメントをツンデレ変換して幸せになるという究極奥義を体得したりもした。はてなブックマークも稀に頂戴した。tumblrで少なからぬ方に転載頂いたりもした。現在は記事を上げれば拍手やコメントを頂戴しないことが珍しいほどになった。誠に嬉しいありさまであった。

 そんな折のことである。

 近親者より
 「あなたのブログについてのメールがうちの方に来た」
 と言われた。
 正直驚愕した。
 苦情であれば何しろコメント欄を開いているのだからそちらに書きこめばいいだろう。メールアドレスもサイトには公開している。何故近親者の方に寄せるのかがわからなかった。そこで転送願いたいと言ったのだが転送はできないという。ではどのような内容だったのかと尋ねてみたが面白おかしく紹介された、というばかりである。さてはミクシーあたりのコミュニティであなたの近親者のブログではないかと紹介されたのではないかと思うが、推察に過ぎないのでやはり真相は藪の中である。何にせよどのようなメールであるかがわからない以上こちらには対処の仕様がない。だが近親者は
あなたのブログは言葉遣いが汚い
品がない
身内のことを書くのはやめてほしい
匿名でも特定するのは簡単なのはわかっているだろう
などという。そうしてしまいには
私は全ての記事を読んだ
と言ってこちらを睨んできた

 私はいよいよ困惑した。

 察するに、メール(或いはコミュへの書き込み)は悪意あるものではなかったのではないか。だがそれを読んだ近親者が
こんなことを書いておったのか
と知り、立腹したのであろう。つまるところ、身内のことを書かれて立腹しているのも、品のない主題に立腹しているのも、汚い言葉遣いに立腹しているのも、メールの書き手ではなく近親者本人なのである。
 それにしたってわからないのは件のメールを書いてよこした人の正体である。誰がどうしてわざわざ近親者に私のブログの感想をよこすだろう。私が◯◯◯◯◯であることはリアルの知人の一部には伝えてある。が、そもそも私と繋がりのある人々が何があったとて近親者にメールを送るとは思えない。ブログ読者という立場のみであれば、仮に◯◯◯◯◯と私とを結びつけ得たとしても、そこから近親者のメールアドレスを割り出しメールを送ることは先ず不可能であろう。つまり件のメールを送ったのは、もともと近親者の知人であり、私の書いたものから私を近親者に親しい何者かであると推測した人物であると考えられるのである。
 とはいえ近親者からメールが転送されない限り上記は仮説もっといえば邪推でしかない。

 それよりも近親者の、ハンドルネームを匿名と同等とみなし、個人ブログを2ちゃんねるなどと同等とみなし、心砕いた記事を匿名で誰だかわからないことをいいことに好き勝手なことを書いていた、と断ずるような認識のほうが問題としては根深い。

 私は元々隠し事に向いていない質である。さらに物書きの真似事をしたがる人間の例に漏れず相当露悪的なキライがある。そんなわけでブログについては距離を測りながらではあるが同好の士と見れば同僚知人問わず明かしている。もっというと私は◯◯◯◯◯としての自分の有り様に誇りを持っている。実名でやらないのはネットからリアルへの過度な逆流を抑制するためだけであり、ここにいる私がネットで文章を書いているということは、私にとって隠すことではなく、そうであれば私は近親者が考えているように匿名のつもりは全くないのである。ついでにいうと、ブログ運営については数年前何かの折に件の近親者に知らせたこともあったような気がする。よくは覚えていないのだが。
 私が持ち合わせているのは、近親者であれなんであれ、見たければ見ればよい、つまらなければやめればよい、というだけの単純な信条である。ワールドワイドに公開しているんだもの、見られたくないから見るなという理屈が通用しないことなぞ端から承知しているし、そのような気構えで記事を書いてきたんである。

 だが近親者にとってはそうではないようだった。
 ネットは匿名だけど今は実名への流れもある、カンニングだってあっという間に身元がバレた、内容からあなたを特定するなんて簡単なことだ、ログとかどんなに残ってるかわかってるだろう。
 こんなことを言い募る。
 まるで私が2ちゃんねるやツイッターで犯罪予告あるいは報告でもしたような扱いである。

 つまり近親者は、七年間同一のハンドルネームのもとに積み上げたものであれなんであれ、私が書き散らした文章は悉く予測不能なリスクにみちみちており、それらは放っておくと大変なことになるやもしれない、だから今のうちに消しておいたほうが身のためだ、と考えているのだ。

 このような純然たる認識の齟齬を、どのように解決すれば良いのか、当初の私には全くわからなかった。ただ近親者が全ての記事を読んでおりながらその中の公益に資するかもしれないものの価値をほとんど認めず、下劣なもの、身内について語っているもの、言葉遣いの荒いもののみを心にとどめそれらについての不快感を増殖させているだろうことだけは推察できた。私は繰り返し、苦情のメールが来たのなら転送して欲しい、問題と思われる記事を指摘して欲しいと求めたが、近親者は、身内については書くな、汚い言葉は使うな、というばかりだったのである。

 さらに近親者は、話し合いの機会を設けるよう持ちかけてきたが、それが全く話し合いになぞならないばかりか、下手な舵取りによってはブログ閉鎖の憂き目に至りかねないことは容易く予想されたので、私は真剣に事後を検討することにしたのである。

 結果、身内について書くな、汚い言葉は使うな、というのは一つ尤もな話でもあり、またこのところ内容が下劣に走っている点については自認しているため、よい機会でもあるので、その点については改善を試みるつもりになった。ただ身内に当然含まれるものとして、子どもについて思うところ、教育における取り組みについても書くことまかりならんという取り決めには閉口した。別段今さら近親者について書く気はないが、教育論は別である。子どもらについてくさぐさ思うところを書けなくなるというのはブログ現実双方における大事な生命線を一本失うようなものだ。よその誰かが参考にするかもしれぬ。私の心の水はけも目的である。そして何より、いつか私が亡くなった後に子どもらが辿れるような、そういう場所として私はここに文章を綴っているのだ。
 だがそれを近親者に理解してもらうのはおそらく非常に困難であろう。先も書いたとおり先ずインターネットというものに対する認識が異なっている。彼らにとってはヤフー知恵袋も2ちゃんねるも個人ブログも等しく匿名者が好き勝手に書いた有象無象の情報の寄せ集めだ。彼らにとっての情報ソースとは、マスメディアであり、官公庁或いは会社のサイトであり、或いは知人友人である。それ以外はまさに便所の落書き以上の何者でもないのだ。
 そんなものが誰かに資するはずはないというのが近親者世代にある根深く揺るがしがたい認識であり、そんなものに参加する行為自体が低劣だと思われていても全くおかしくはないのだ。

 ここまで考え至って、私は、マスメディアとインターネットの捻れながら侵食しあうような共存構造に纏わる秘密を垣間見たように思った。つまるところジェネレーションギャップなのだ。個人がどうしようったってどうなるものではない。

 改めて、私がブログの閉鎖を迫られなかっただけよしとせねばなるまい。

 だがその一方で、実に奇妙なことに、これは大いなる好機でもあるという期待感が丹田よりふつふつと湧いてきたことを告白しよう。実のところ、近親者もまた一人の読者なのだ。しばしば「嫌なら見に来なければよい」と言われるし、私自身そう思ったことが全くないわけではないが、残念ながらそれは自身の行動規範にすることはできようとも、人に対し指示できることではない。そして何より重要なのは、あらゆるコメントは全て私のこのブログを何らかの形で気にかけたその成果であるという単純な本質の認識だ。一見否定的なコメントとは、「あなたのことを考えて書いてるとかそういうんじゃないんだからね、勘違いしないでっ! でもね、この記事のこの部分、あなたの考え方って……」と始まる遠回しのラブレターなのだ。

 さあれば私がすべきは何であるか。

 下劣を完全にやめることは自身の性分として大変難しいであろうから、せめてそれを高尚の絹布で包むこと。言葉遣いについてはやや伝法あたりにとどめておくこと。子どもら以外の近親者記事については書かないこと。そして、子どもらについては、記事を書く都度公開前に「こういうものを公開しようと思うがどうか」と質してみること。つまるところ本人の検閲を受けるのである。そこまでやれば、まぁ、問題はあるまい。
 そしてもし近親者の世代が近親者と同様個人ブログは便所の落書きに等しいと考えているなら、にも関わらず彼らをして「面白い」「この個人ブログは読み応えがある」「個人ブログというのはなかなかよいものだ」と思わせることができたなら、いっそ愛読者にすることができたなら、それはまた素晴らしいことではないか。
 インターネットは面白い場所だ。誰もが様々なコンテンツを公開することができる。そしてそれはインターネットにアクセスできる立場にあれば好きなときに閲覧することができる。人類史上稀に見る情報共有の時代、それが二十一世紀だ。その中で記事を公開しながら七年過ごした経験が、また積み上げた記事が、全く無駄なわけがない。誰も彼も読み手だ。マスメディアより深く広いメディアに文章を公開している人間として、私にはより良い記事を公開するために自身を修正する責任がある。
 そして願わくば、この文章をここまで読んでくださったあなたが、私の文章のこれからの読み手となってくださいますよう。」


駄文にゅうすさま、記事の紹介ありがとうございました。
RinRin王国さま、記事の紹介ありがとうございました。
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ネコタ斑猫

  • Author:ネコタ斑猫
  • オリジナル百物語サイトバー理科室の管理人。本家サイトでは400字×20枚内読み切り短編連載中。死ぬまでに千物語を完成させるのが目標。
    プロフ画像は山田芳裕著「へうげもの」より。古織いいよ古織。
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