兄弟平等廃止宣言

いつのまにやら
「子どもはできうる限り平等に扱うべきだ
なれば同じ程度に資源を投入し
また同じ程度に諸々の機会を与えるべきだ」
なんてのが不可侵のお題目として頭に刷り込まれてて
下の子を上の子と「平等に」塾に行かせようと試みたり
下の子を上の子と「平等に」少年サッカークラブチームに所属させ続けようとしたりして
諸々を御しきれなくて
自分を責めたりしちゃってたわけだ。
親からも
「お兄ちゃんにやってあげてたんだから
同じようにやってあげなきゃ」
「お兄ちゃんはできたのに
なんで弟はこんなかしらねぇ
あんたの努力が足りないんじゃないの」
なんていわれたりもしたわけだ。
更に上の子からは
「俺はDS何年生まで我慢したのに
弟は俺より2年も早く買ってもらってずるい」
「俺は何年生から塾に行ったのに
なんで弟はいかねぇんだよ」
となじられたりもしたわけだ。

でもな。

考えてみたらな。

時代、状況、そしてそもそも個人の資質が自ずと異なっている子どもを
等しく扱うべきであるという命題そのものが
無茶なんじゃねぇのかい?

それぞれの子どもについて、それぞれの状況下で
ベストを尽くせば
それでいいんじゃねぇのかい?

等と思い至ったわけで。

そこで子どもたちを呼びつけてこんな宣言をした。

「これからうちでは「兄弟平等」は廃止する。
そのかわりお母さんはそのときの状況下でお前ら一人ひとりにあわせてベストを尽くしてやることを約束する。
そーするといろんなことが兄弟で全く別のことになるかも知らん。
でもそれは状況が違ったりお前らそのものが別の人間なわけだから
当たり前のことだ。
だからもう兄弟で平等だの不平等だの比べたりするな。
それは意味のないことだからな」

その昔
ラッセルの文章を「世界の名著」で読んだことがある。
さっぱりわからなんだが
その中に
民主主義において掲げられている平等主義は
全ての人の能力が等しく状況も等しいという不可侵不検証の仮定のもとに
全ての人が常に最善且つ等しい処遇がなされるべきだというものである
だがそれは平等主義ではなく水平主義である
というような内容があったのを薄く記憶している。
その伝からすると、恐らく世に広く言われている「平等主義」は「水平主義」なのであろうと思う。
何かを大量に供給する側としては過剰や欠落を留保して平均として一律に遇したほうが楽なのだ。
勿論一度に大勢を相手にせねばならない公教育の現場では
そのような手法はいよいよ有効であろう。
そうして逆にこんなに小さな家庭の現場であればこそ
保護者は水平を思ってはならないのだ。


あまだんさま、記事の紹介ありがとうございました。
◆ケイモウ・アナライズ◆さま、記事の紹介ありがとうございました。
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