神といふもの

空が青かった。

午前中お母さん友達がお茶しに来た。
美味しいお茶菓子を頂きながらよく笑った。

子どもたちは昼食を食べた後連れだって友だちのところに遊びに行った。

もう少ししたら
「お母さんのカレーは世界一美味しいよ」
といっていた子どもたちのために、カレーを、そして今週分のお惣菜を作ろう。

でもその前に、少しだけゆっくりしよう。

布団を取り込みながら。
外の雲の速い流れを遠くに見上げながら。

今こうして静謐にあるこの瞬間がとてもうれしくとてもありがたく、なにがしかに感謝したくなった。

薄ぼんやりとした感謝は宛先を探そうとした。

そうして私はその先に神といふもののあることに気付いたのである。

私は幼いころカソリックであったが、父なる神が厳然と君臨するキリスト教というシステムに意義を見いだせず、結果宗教を排する羽目になった。
何故人が宗教と言うシステムを作りまたそれを維持しているのかわからなかった。

今もよくわからない。

が。

人は大概、他者がしてくれた何かに対し感謝する。
人の世界において、感情の動く出来事とは、大概人か、或いはそれ以外の身近な特定できる作用因によるものである。
だが、そういう作用因が特定できぬ際に、或いは作用因が人智には膨大すぎる際に、感情は向かうべき宛てをなくし、世界への主体たりうるという自身を失くし、不安になる。
そのような場合において、作用因を見透かしたつもりになり、結果何らかの形で作用因に働きかける余地があると自らに盲信させるために、方便として仮設されたのが畢竟神なのであろう。

天変地異によって恐ろしい思いをした時、その恐ろしい思いの原因を帰属させるべき宛てを求め、その過程で仮設さられたのが神だ。
人智には捕らえがたいような複雑にして無作為な次第によって途方もなくありがたい思いをした時、そのありがたい思いの原因を帰属させるべき宛てを求め、その過程で仮設されたのが神だ。

私は随分長く、神を中心とした完成したシステムに組み込まれることを余儀なくされていたので、宗教というものはただ個人に無体な形で関わってくる厄介な装置というほどの認識しか持っておらなかった。
愛する科学に引き比べて、宗教はどうしても不可解で非合理で酷く蒙昧で全体呪術的なものとしか見えなかった。
だが、原初における神の発明がそのようなものであったと仮定すると、
神というのはなるほど未だ自分には不必要なものではあるけれども、
人の精神の在り様から見ればあってしかるべきものなのだなぁ、と思い至ったのである。
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  • Author:ネコタ斑猫
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    プロフ画像は山田芳裕著「へうげもの」より。古織いいよ古織。
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