百物語第四夜其の三 夏の蜩 秋の姫君

 虫の声は崖の上から絶え間なく零れ落ち泡の如く積もり積もりてしまいには谷を埋め尽くしてしまうのではないかと思われた。音の封じ込まれた泡の粒を指に挟んで潰して見たらば今しがた聞いていたばかりの新しく冴えた音が過たず放たれるだろうか。そういうもので埋まった谷はしまいには一体どうなるだろうか。踏みしめるたびに尊い音色で足元が震える透んで輝かしい結晶の地層となりて今よりよほど渡りやすくなるのだろうか。
 谷近くには口のない洞があり、そこには秋の姫君が従者に世話されながら一人棲まっていた。秋の姫君には役目はなかった。ただ秋になれば目を覚まし秋を見守り冬になれば眠り次の秋を待つ、そればかりであった。
 姫は深いまなざしを伏せたままむき出しの神経のような見かけをした菌糸の匂いを聞いていた。見渡せば姫の住まいのそこここから新しく生白く瑞々しい菌糸が滴り落ちていた。そうして崖から先を争うように届けられる虫たちの鳴き声は例年と変わらず秋の姫君の耳を慰めたけれども、その表情が少しばかり曇っていることに従者が心付かぬはずもなかった。
 「いかがなされましたか」
 姫のための新しい反物に烏瓜の蔓を描きながら従者は尋ねた。
 「いえ、なんにも」
 それぎり会話は続かなかった。だのに秋の姫君の顔は曇ったままだった、
 「どうかしたんでしょう」
 先ほどより少し強い調子で従者は姫を質した。
 「どうということもないんです」
 姫は応えたが、答えはしなかった。それは実際のところを明かすつもりはないという表明にすぎなかった。従者は少し苛立って
 「どうということもないというはずがないでしょう」
 と断定した。姫は困った顔になり
 「言っても仕様のないことですから」
 「ほら御覧なさい」
 「何が」
 「言っても仕様のない、お前になど伝えたところで解決の宛てもないことを私は考えているのだよ、と姫は仰っているわけでしょう」
 「いえ、そうではないんです、解決の宛てなぞ誰にもないし、それに私の詰まらないことでお前の手を煩わせるのも気が向かないのです」
 「しかし姫はその詰まらないことにそんなにも気を取られている。そうであればもうそれは姫にも私にとっても詰まらないことではないではありませんか。」
 姫はため息をついた。それは紅葉散るきわの静かな空気の揺らぎのようだった。
 「わかりました、では詰まらないことではないとしましょう。その点についてはあなたの言い分が正しいのかも知れません。でも私にはまだ理屈があるのです。私はこんな詰まらないことであなたの手を煩わせるのが気が向かないのです。」
 「また詰まらないと言った」
 「だって詰まらないんですもの」
 「ここまで明かしてしまったんだから諦めてお話しなさい、詰まらないかどうかは自分で決めないほうがよいときもあるのです。大体あなた詰まらない詰まらないと自分では言っておきながらいざ私が知らされて詰まらないなどと評すると却って侮辱されたような気になるんじゃありませんか。そういう回りくどくて自意識過剰で全体さかしまでどうにもこうにも非効率なやりくちを私が心から嫌悪しているのはもうとうにご存じでしょう。何か心に留めたなら自分の中で弄び過ぎて元が知れなくなる前に私に言いなさい。そのために私が居るんですから」
 「じゃあね。
 じゃあね。
 でもね。」
 姫はしばし俯いた後ようよう口を開いた。
 「…あんまり無理な話なの。
 笑わないで聞いて下さい」

 胸の内にあったのは、初夏の夕暮れに降りしきるひぐらしの声。
 緩やかな眠りの浅瀬を揺らし姫の心に届いた響。

 「私は秋にしか目覚めませんから、ひぐらしの声を聞きたいと思っても無理なのは承知しているのです。
 いえ、私はほんとうのところ毎年聞いてはいるのです。眠りに就きながら。
 それはとても心地よく懐かしい声、瑞々しい木々がさやけく揺れる度に煌めき落ちる優しげな夕暮れの日差しのような…。
 だから贅を言わず欲を掻かねばよいのに、つい、つい私は、こんなにも秋の虫たちの素晴らしい音色に満たされておりながら、けして届かない季節の夢の名残を懐かしんでしまう…。
 ほんとうに、仕様がないのです。」
 姫はため息をついた。地上ではエンマコオロギが玉を転がすような音色を絶やさず奏で、その隣ではコオロギとは曲調も何もかもまるで違うと言いたげな鈴虫が短く鋭い旋律を潔いほどに凛々と繰り返していた。その他の虫も全て熱心で、まさに秋の野辺の交響楽団とはこれに相違なかったわけだけれども、姫にはそんな大仰よりも、初夏の山そのものが響いているような、大地から吸い上げた水を枝葉に送り続ける維管束の清冽さそこから蒸散する青みを含んだ新しい空気その精留の成果こそが鳴き声であるような、そんなひぐらしの声の満ちる場を焦がれるように慕っていた。いくら焦がれても叶わぬこととはもとより承知していた。承知してわきまえたふりをすればするほどいよいよ思慕は昂り心は沈んだ。そんな我に執着する自分を姫はいっそ恥じてさえいたのである。

 己が心の翔り立たんとする先から気を逸らそうとしている姫と裏腹に従者には何か思うところがあるようであった。じき従者は恭しい顔つきになって告げた。
 「姫、お見せしたいものがございます」

 案内した先には瑪瑙の空洞があった。空洞は枯れ葉で敷き詰められており、その中心に紡錘の外骨格と透明で繊細な翅を持つ昆虫が横たわっていた。
 「これは? 」
 姫が尋ねる。
 「ひぐらしにございます」
 「ひぐらしが何うしてこんなところにいるのですか」
 従者は頭を下げた。
 「実を申しますと、この者は地上に出そびれた憐れなる幼虫のなれの果てなのでございます」
 従者によれば、人が己らの至便のために土の大地を硬くて薄い溶岩のようなもので覆うことがあるのだという。
 深く広く根を張った木の根の樹液を吸って育ちあがった蝉の幼虫は、突然設けられた溶岩の被膜に遮られて出る宛てを失くしてしまう。
 そんな不遇の幼虫がここに迷い込んで羽化したのだと。
 「さんざ彷徨ったせいか、成虫になったはいいがすっかり弱った様子で掴まる力も無いようでした。
 それでこちらに寝かせたのですが…。」
 折角無事に羽化したひぐらしから、命の気配は見えなくなった。
 余りに不憫で、余りに痛ましくて。
 埋めることもできず、ただ休ませているというような心づもりで過ごすうち、とうとう姫が目覚める時期に至ってしまった。
 従者はそんな風に明かした。

 なるほど蝉は強張っていて、生きているとも思えなかった。
 (だとしたらこのものは、友とも、巡り合うべき伴侶とも、季節とも、生きるべき世界ともはぐれてしまって。
 不測の変動で、全てから遮られてしまって)
 こんなところに迷い込んで、このまま夏を待てるはずもなく。
 (いくらなんでも哀れにすぎる)
 そんな思いに打たれた姫は、左の手で救うように、右の手で覆うように、蝉のなきがらを取り上げた。
 途端、仮死であったのか、それとも姫の手の温もりで体液が再び通い始めたのか、蝉はぴくりと足を動かし、かろうじて姫の指に捕まると、腹を懸命に震わせ鳴きはじめた。
 
 明け方に見る夢のような、宵闇に聞くさざなみのような、確かで儚いそんな鳴き声が空間を満たし、遠慮するように他の響きは遠ざかった。
 
 じきひぐらしの音は途絶え。

 暫くの静寂の後、秋に鳴く虫一斉の、震えるほどのお弔い。

終 



先日のスク水小説にイラストを描いてくださったみりん屋の人主催の「秋」主題読者参加企画応募作品でござります。
みりん屋の人さま、その節はほんとうにありがとうございました。
拙作ではございますが、お納めくださいませ。
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[読者参加企画]私は、この秋を楽しもうと思う 第10回

!!! まさかのだよ!!! どういうことだよ!!! 書いたの!?トラバ打ったの!?俺死ぬの!? まさかまさか。朝香のセデス。 ネコタ斑猫さんが、秋企画にのってきたずぇぇぇぇぇぇぇえ!!! すげぇ!!すげぇ!! ちょっぴり、泣いた。 んもう。涙もろいんですから。ネ

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すくみうさま、コメントありがとうございました。

お読みいただきまして、ほんとうにありがとうございました。
姫と従者が思いのほかよいかけあいをしてくれて助かりました。
全然関係ないんですが、この夏刺された覚えがないのに蚊にやられてることがありまして、
淘汰の結果無音の蚊が出たんだったらどうしよう
とどきどきしてました。
では、ハイルスク水!
ネコタ斑猫 拝

小さい夏、見つけた。

前半の「しようのないやりとり」から、
後半の「ひぐらしの声」を聞くところまで、
素敵な時間をすごさせていただきました。

みりん屋の人さま、コメントありがとございました。

ども、その節はお世話になりました。
間に合うか自信がなかったので表明しなかったのでございます。
小心者あいすみません。
ご紹介いただきありがとうございました。

ひぐらしって、秋っぽいですよね…。

では
ネコタ斑猫 拝

今晩道中膝から栗毛。
いかがお過ごしてしょうか。

>締め切り
あ、あれは、目安的な物だったので、
だいじょうぶですです!

結局昨日は遅くまで呑んでて更新せずに寝てしまったのですよ。
すみません。ネコタさん。

企画参加
本当にありがとうございました!!
プロフィール

ネコタ斑猫

  • Author:ネコタ斑猫
  • オリジナル百物語サイトバー理科室の管理人。本家サイトでは400字×20枚内読み切り短編連載中。死ぬまでに千物語を完成させるのが目標。
    プロフ画像は山田芳裕著「へうげもの」より。古織いいよ古織。
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