「子どもの個性を伸ばそう」というのは教育において無批判に提唱され続けているお題目の一つである。そうして自身も長くうすぼんやりと「個性とは伸ばすもののようだなぁ」と思い続けていた。が、先日とあるブログ記事で
「自分たちの若いころは個性とは技術を磨いて身につけるものであった」(うる覚えです、検索でも探せませんでした、もしこういう内容の記事をご存知の方いらしたら教えてくださいませリンク張らせていただきます)
という記述を読み、立ち止まった。
なるほど個性とは確かに磨いて身につけるものなのかもしらん。だが個性とは伸ばすものというのも随分人口に膾炙した表現である。少なくとも私は幼い頃そのように教えられてきた。だが一方で、以前眉白町という大変面白いマンガの中で
「個性とは練習を繰り返して型にはまりきってなおにじみ出てくるものだ」
(これもうる覚えすいません)
という記述を読んで大変腑に落ちた覚えもある。
つまり私の中では、二つの真逆の概念が平左な顔で同居していたわけで、気になりだすとどうも落ち着かない。
それで考え至ったのが
巷間言われている個性とは
作品や芸風の「個別性」
「個人の性格」
それぞれの略称であり、それが混淆してしまっているのがこの無神経な同居の原因ではないか? という仮説であった。
作品や芸風の個別性というものは磨くものであり、先験的に与えられるものではけしてない。それは眉白町にあるとおり、スキルを積み果てて初めてにじみ出てくるものである。古典芸能を考えるとわかりいいだろう。或いは武道でもいい。型を自然に体現できるようになってそこを通過して初めて立ち現れてくるのが芸風の個別性であると思う。また作品についてもやはりスキルを身につけて初めて表せる領域というものがある。才能が備わっていたとしても、それを高めるのは繰り返しの練習だ。作品や芸風の個別性が問われる分野で活躍する人々は、常人に想像がつかないほどの時間を労力とを繰り返しに費やしている。それにより十分なスキルを身につけて初めて他を凌駕する何かを生み出せまた表すことができるのだ。
で。
この作品や芸風の個別性即ち個性を「磨く」という概念が戦後の「個人を大切にした教育」の中での「個人の権利の尊重」に転用され、さらに教育現場における目標とされる「成長」を言い換えた「伸ばす」と絶妙な感じでアウフヘーベンされちゃったのが、
「個性を伸ばす」
というすばらしく出来のいいキャッチコピーだと思うわけで。
ほんと、このキャッチコピー考えた誰かさん、天才。多分高度成長期あたりのどこかのガッコの先生なんじゃないかと思うんだけど、今の今まで通用してるよ! あらゆる教育現場でずっと金科玉条の如く掲げられてるよ! 糸井重里なんて目じゃないね!
が、ちょっと待て。
ほ ん と に 個 性 っ て 伸 ば し て い い モ ン な の か ?子どもは未熟な野獣である。親の仕事というのはそれをどれだけ社会化できるか? つまり
ど れ だ け 型 に は め ら れ る か
勝負であると日々血が滲むように思っている。ルールを如何にすばやく察知し習慣化し遵守し活用し時に裏を掻くか、それがオトナとして喰っていくための第一のスキルだと思っているからである。簡単だ、遅刻しないというルールを遵守できない奴は首になる。不文律が察知できない奴は悲しいけれどハブにされる。裏技を知っていれば得をする。そしてルールを作る側になれたなら、えげつない商売ができる。
ルールというのはそういうものだ。だからルールを教えるだけでなく、察知させるため、習慣化を苦にさせないため、活用させるため、裏を掻かせる為(いやこれはまだ早いけれども)、展望もって子どもを先導している。
そうやって闘っている私に、そうやって闘っている母親に
個 性 を 伸 ば せ だ ぁ ?
未熟な野獣の個性伸ばしたら大変なことになるじゃねーか!
あんな子やこんな子が今以上に増えるのかよ!
少なくとも今フリーダムな若者はみんなそのキャッチコピーに守られて育っちゃったんだぞ!
でな、おい!
そのキャッチコピーをわら半紙に刷ってるお前!
ほんとにそこにいるその子どもの個性伸ばしていいと思ってるんだな?
よし、わかった。
私とは相容れねぇ。
なわけで、
「子どもの個性を伸ばそう」
でなく
「子どもに伝統の型のごとくルールを教え込んだ上でにじみ出てくるのが個性」だということを共有できる保護者さんが増えるといいなぁ。
駄文にゅうすさま、記事の紹介有難うございました。
なのに、伸ばすだの磨くだのの話では「悪い個性」、つまり短所はあらかじめ排除しておいて「良い個性」長所のみの話をするのですね。
ルールを踏まえた上でにじんでも、それが短所なら磨きも伸ばしもしないでしょう。混乱の原因は混用にあると思います。」
ええと、多分そんなところです、ハイ。
ネコタ斑猫 拝