もう子どもを信じるのはやめようと思った。

冬休みお母さんに学校から宿題が課された。
「お母さんから子どもへのお手紙を書いてください」
との注文である。

考えた。

便箋と言うのは案外保管が難しい。
なんか保管しやすい形式がよかろう。
というわけで無印の文庫本ノートの薄型を買ってきてふるい外国の切手を貼って装飾、中に文章を書いて子どもに託した。

ほぼ一月後の先日、出ていないのはうちだけだとクラス委員の方から電話があった。

こちらは渡したわけで、本人に質したところ
「確かに先生の机に置いた」
という。
もうどういうことかわからないわけで。
で、先生にも電話し、色々話した後、ふと思い立って鞄の中身をどじゃーと床に空けたら。
あった。

で、もう一ヶ月の間何度も質して出したはずだの一点張り、先生にもご迷惑をおかけし、自分としても思いいれのある作品だったので、正直かなり激怒、きつくしかりつけた後切なくて泣いてしまったのだが。

次の日、なんで自分はあんなに乱心してしまったのだろうなぁ、と思い返して、気づいたんである。

裏切られたと思ってしまったんだなぁ、ということに。

では私は何故裏切られたと思ってしまったのだろう。

「信じて」いたからだ。

では信じるとはなんだろう。

人は他者の言動から帰納してその人の言動パターンを仮定し、さらにそこから演繹してその人の言動を予測する。
「信じる」とは、他者の言動パターンに自分が望む方向への補正をかけ、その補正がかかったまなざしで他者の言動を予測することに他ならない。

「あなたのことを信じてたのに」と恨みごとを吐かれたときに覚えるうすら寒く鼻白むような思いとは、自分の現実的な状態に関わらず他者のひとりよがりな補正を一方的にかけられ手前勝手に行動を予測された挙句そんなことは露知らずただ自身の理屈で動いた際に押し付けられるこちら側の事情とは縁もゆかりもない感想に対する距離感、、居心地の悪さ、面映さそのものなんである。

そう思い至ったとき、自分は、子どもを信じるのはもうやめようと思った。

「信じる」ことをやめても、あらまほしき子ども像なんかを仮定しなくても、問題の都度よい解決を一緒に真摯に考えてゆくことで、子どもをよい方向に導いてゆくことはできるはずだから。

「信じる」などという言葉を使う相手は、畢竟、自分だけで十分なのである。
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    プロフ画像は山田芳裕著「へうげもの」より。古織いいよ古織。
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